木漏れ日の下で

ピアニスト 末永匡 オフィシャルブログ

誕生日メッセージありがとうございました。


My dear friends, thank you so much for such a wonderful message! I hope that the spread of coronavirus infections will settle down. Spring is here.


誕生日メッセージをありがとうございます。家の周りの桜が咲き始めました。誰もいない公園でブランコを楽しそうに遊ぶ子供を見ては、新型コロナウィルスが一刻もはやく終息またはコントロールできる状態になること、世界中に安らぐ日常が訪れることを改めて切に願う今です。


何をするにも時間がかかり不器用な自分ですが、ここ最近与えられた時間は自分の心や思考を見つめ直すには良い機会、と気持ちを切り替えて過ごしています。今まで心の中に残っていた大小様々な疑問とじっくり向き合ってみたり。


…「アート」という言葉の意味を誰が明確に説明できるだろうか。しかし様々なシーンで多用されるアートという言葉。しかし音楽やダンス、演劇、絵、建築、文など他を含めた様々な方法で表現された強烈な世界を体感した人はアートが偽りない誠の存在であることを知っている。そしてそれらが人の心をどれだけ揺さぶり、豊かなものにしてくれているかということも。もし人間にそれらが不必要であればとっくの昔になくなっているはず。それはすでに歴史が証明している。アートは人間のそばにずっと一緒にいたもの。決して特別なものではなく、呼吸のようなもの。僕は「人は誰もがその人にしかできない表現を持っている」と確信している。それは僕が東京工業大学で「音による創造性」という講義をしてきた数年間にあった貴重な体験からきている。(音大生ではない)学生たちと全ての感覚を研ぎ澄ませ、各々が自分自身と対峙し、問いかけ続け、答えを探し、共に創り上げてきた時間。めちゃくちゃアートしていた。最後は全員が音で自己を表現していた。人と表現。偉大な芸術家である(僕の恩師の先生であった)エドウィン・フィッシャーの「芸術と人生」のようだ。アートは人そのものであり、人は問いかけ続け、答えを探し求め、それ自体が表現であり、すなわち人間である証とも言える。僕はそれを音楽の中に求めている。いくらベートーヴェンが作曲した作品であろうと、表現している時は、それはすでにベートーヴェンでなく僕自身である。


今から30年ほど前に「今を生きる」という映画があった。ロビン・ウィリアムが演じる英語教師ジョン・キーティングはこう言う。


「自分の力で考えることを学ぶのだ。言葉や表現を味わう事を学ぶ。誰が何と言おうと言葉や理念は世の中を変えられる。君にとって19世紀の文学など経営学とや医学とは無縁、そう思っている。"黙って勉強して、その後自分の野心を達成すればいい"とね。…だが秘密を教えよう。我々はなぜ詩を読み書くのか?それは我々が人間であるという証なのだ。そして人間は情熱に満ちあふれている。医学、法律、経営、工学は生きるために必要な尊い仕事だ。だが、詩や美しさ、ロマンス、愛こそは我々の生きる糧だ。…ホイットマンの詩を。"おお 私よ 命よ、幾度も思い悩む疑問、信仰なきものの長い列、愚か者に満ちた都会、何の取り柄があるだろう、私よ 命よ、答え、それは君がここにいる事、命が存在し自己があるという事、力強い劇は続き君も詩を寄せる事ができる…君らの詩とは?」


先日ドイツのGrütters文化大臣が芸術家への支援を表明した。(下記URL参照)もちろん乗り越えるべき壁はいくつもあろうが、あのような立場の人間がアートの重要性を訴え、堂々とその支援を宣言することはとても意義深いこと。僕らのような人間には大きな支えになったはず。少なからず僕には響いた。日本では誰がこんなことを言えようか。


「コロナのなかのマイアベーア、そしてドイツの文化的底力|長木誠司」


最後に、ディズニーの言葉をもじってみたり。

Art will never be completed. It will continue to grow as long as there is imagination left in the human.

(芸術は完成することはない。人間の中に想像力がある限り進化し続けるだろう。)


今このような状況の中、小さな部屋の中でもピアノを通して表現できることに大きな喜びを感じています。そして、近いうちに音楽と共に、皆さんとその空気と感情が織りなす空間を共有できれば幸いです。


本当の春が来ることを祈りつつ、感謝を込めて


末永匡