木漏れ日の下で

ピアニスト 末永匡 オフィシャルブログ

自分の言葉で

コンクールで受賞したとの報告が入った。


そうか…受賞したのかぁ、としみじみ。素直に嬉しく思う。しかしそれよりもレッスンで過ごしたこれまでのことを思うと、ホントよく頑張ったなぁ、と。


レッスンで出来ることというのは限りがある。それを咀嚼し浸透させ、活かしていくのは自宅での個人練習。


「コンクールというはある意味とても大切だと思います。しかし、あなたが受賞するかどうかについては正直あまり興味がありません。気にならないわけではありませんが、レッスンの中では重要なことではないのです。僕は、あなたの音楽をあなた自身の言葉で創っていく、それ自体が最も大切なことだと思っているし、興味があります。」と伝えたのを思い出す。


自分の言葉。


常に自身の心と対峙し、自問を繰り返しながら音楽の奥を覗く。その濃く深い関係によって生まれた音楽は自分の絶対的なパートナーとなり今後の人生を共に歩んでいく。不安になったとき、迷ったとき、孤独になったとき、いざというときに常にそばにいて自分を支えてくれる。それは決して離れることがない。あなた自身の音楽であれば、の話。


そしてその人は自分の言葉を楽譜に書いてきた。偽りのない本音を。見せるときに恥ずかしがっていたけれど、僕はその言葉を見て素晴らしいと思ったよ。これでようやくスタート地点に立ち、音楽を語れる。そこから一歩一歩、少しずつ。


「あなたはどう弾きたいのですか?」


ドイツで常に先生から聞かれた言葉。何百回聞いただろうか。今でもそれは木霊している。決して複雑な問いではないんだ…けどね。


公開レッスンだろうがゼミだろうが、コンクールだろうがコンサートだろうが「音楽を創っていく」ことには違いはない。僕はいち聴き手として「奏者の音楽」すなわち奏者の「人間」を聴きたいと思っている。奏者が先生の言うことをどれだけできているか、ではなくて「奏者が何を感じ、何を伝えたく、どう表現しているか」を。「あなたが何者なのか」を。以前、某コンクールの講評にそんなことを書いたっけ。


感じること、表現って何だろう?


これまで生きてきた人生の経験という点が線でつながり一つの音に集約されていく、そんな感覚を思ったり、エドウィン・フィッシャーの「芸術と人生」も思い出したり。


このブログタイトルの説明はそんな気持ちも含まれています。


では、僕は自分の言葉で語れているのか…?


さて、今日もこれからピアノに向かおう。