木漏れ日の下で

ピアニスト 末永匡 オフィシャルブログ

本質の極み、その言葉を胸にしまい

rehearsal

「舞台に全てを置いてこよう」


舞台袖の扉が開く直前、そう決意して舞台に出る。


時間と同じ。後戻りはできない。その瞬間に生まれた音(命)はすぐに消え、二度と生まれることはない。その連続で姿を現す音楽という世界。


先週14日に浜離宮朝日ホールでのリサイタルを終えた。今回のベートーヴェンプログラムに向け過ごした日々は、僕に多くの気づきを与えてくれた。


表現。


一日のあらゆる時間それを考えさせられた。何をしようと頭から離れない。表現とは?僕にとって音楽とは?僕の中で音楽はどう生きるのだろう?これらは聞き飽きた問いなのかもしれない。けれどそれ以外の言葉が見つからなかった。どんな時でも僕は自分に問い続け、ベートーヴェンの音楽がそれらを問いかけさせていた。


問うこと。それは僕自身を覗くこと。先の見えない森を彷徨う様。


楽譜との対峙。問いかけはさらに強まり僕をその深淵の奥底へと突き落とした。しかし時に何かしらの表現、その片鱗が顔を見せる瞬間がある。逃げていかないよう直ぐピアノに向かって音にしてみる。その繰り返しの毎日。


コンサートというのも一つの通過点に過ぎない。リハーサルも自宅と変わらず探求の森を彷徨う。本番中にも自分の知らなかった音色や表現が顔を出す。音楽は常に変わっていく。これもまた時間の芸術と言えるのか。


「僕は僕である」


「僕は僕らしくいていい」


今回、僕は僕自身を初めて受け入れることができたのかもしれない。


誰が何と言おうと僕は今生きている。温かな血が体を巡っている。心があり感情がある。生きていることの全てが音に帰る。音楽とは僕自身である。


今は亡き恩師たちの言葉が頭を木霊する。


「どうせねばならないのか、ではなくあなたが、どうしたいのか?」


僕の中にある表現という重い大きな扉がゆっくり音を立てて開こうとしている。その先にある道のりはどこに続いているのだろう?終わったという解放感はなく、むしろコンサートによって湧き出た様々な思いが頭を巡る。ピアノに向かう。いつもと変わらない。


リサイタルに来て下さったお客様はじめ、このコンサートをサポートしてくださった多くの方々に思いを寄せて。お陰様でほぼ満席のお客様にご来場いただき、ニューアルバム「tragico」も完売。言葉が見つからない。


全ての関係者に最大の感謝を込めて…

Beethoven

リサイタルを終えた後日、胸が苦しくなるほど尊敬しているピアニストの先生から手紙とベートーヴェンの絵が届いた。


手紙に書かれているシンプルで奥深く琴線に触れる数々の言葉に鳥肌が立ち奮い立たされた。素敵な額縁に入っているベートーヴェンの絵はご本人がウィーンでご購入されたもの。「ずっと自分の部屋に飾ってあったけどあなたに差し上げます」そして「今は亡きあの先生が抱いていたベートーヴェンへの情熱を、力を繋いでいって…」と続く。恐縮の極みとは正にこのこと。


そして、今は亡き恩師がベートーヴェンの研究について書いたファックスのコピーが。恩師が今もなお生きているのではと思わせる生々しい文体に涙を堪えられず。


個が存在し、生きる音楽を、そんな気持ちを改めて決意した今。