木漏れ日の下で

ピアニスト 末永匡 オフィシャルブログ

恩師との思い出

車の中で「パパのピアノの先生ってどんな人だったの?」と長女。 

僕「とても厳しくて怖い先生だったけど、今はすごく感謝しているよ」

長女「ふ〜ん」

…と何気ない会話の中で溢れる思い出。

出会いとは一つの奇跡で、僕は本当に恵まれたと思う。こんなにも温かく心に残り続ける今は亡き恩師たち。「自分で考えること」「創造し生み出す喜び」を教えてくれて「音楽が生きることにどれだけ命の豊かさを与えているか」に気づかせてくれた。ピアノ、音楽はもちろんのこと、人生、芸術、精神などの話も、まるで木漏れ日の如く優しく語り続けてくれた。とは言っても、自分の言葉や感情が演奏に見えない時はどの先生も怖かったなぁ。上辺の言葉や気持ちは演奏で全てばれる。そういう時は先生たちは呆れた感じでつまらなそうにしていたっけ。もっと自身の深いところにある”何か“と対峙したものから滲み出てくるような、得体の知れない言葉や感情にしがみつくように(指が追い付かなくとも)必死に演奏した時は、先生たちは喜んで色んな言葉や音を僕に投げかけてくれた。

ケンプフィッシャーの愛弟子だったある1人の恩師はよく2人の偉大な芸術家の話をしてくれた。ある時、レッスン後にケンプの娘と恩師と僕の3人で食事をしていた時。『タダシ、これ誰だと思う?」と彼女が見せてくれた1枚のモノクロ写真。ケンプのマスタークラスの1シーン。2台ピアノがあって、周りには地べたに座ったり壁に寄りかかったりしてたくさんの学生たちが聴講している。曲目はブラームスピアノ協奏曲第2番(だったかと記憶している)。ケンプは多分オケパートを弾いてたりしたのだろうか。受講生はまるでグレン・グールドのように体をねじらせ、鍵盤を覆うように弾いている。

「その時ね、父(ケンプ)はその生徒に言ってたの。君は顔の表情は豊かだけど音になってないねって」と笑いながら話すケンプの娘。「受講生は誰だと思う?」その隣で、もうやめろよ…みたいな感じで手を動かす先生。そう、その青年は若かりし頃の僕の恩師だった。僕が知っている先生は、ずっしり深く座って、微動だせず、詩を語るように演奏する姿。先生もこういう時があったんだ…とまじまじと写真を手にとり見つめていたあの時間が懐かしい。2人は今頃天国で何を話してるのかな…。