木漏れ日の下で

ピアニスト 末永匡 オフィシャルブログ

感謝、そして思い出す東工大

 ユーロピアノ株式会社様より「"私の"ベヒシュタイン物語~エッセイコンテスト公募作品・委嘱作品集~戸塚亮一編」をご恵贈いただきました。ありがとうございます!


大変興味深く拝読しました。各執筆者が「それぞれの言葉で"丁寧"に綴っている」のがとても印象的。ベヒシュタインピアノが人生にどう関わっているか。「"私の"・・・」に「""」がついている意味が良くわかります。楽器と人に歴史あり、ですね。


その中で、末永が東京工業大学でとてもお世話になった肥田野登先生(東工大名誉教授、前世界文明センター副所長、イタリア・トレント大学客員教授)が「ピアノを超えたピアノの役割」というタイトルで執筆されています。


東工大にあるベヒシュタインピアノについて、そして末永も講義を受け持っていた世界文明センターでのことが先生の熱き言葉で綴られています。ぜひご一読を!


「末永さんは東工大で何をしてるの?」とあらゆる音楽関係者から受けた質問。「僕は東工大で音楽を教えていないし、ピアノも教えていません。学生たちと"創造"しているのです」こう答えるとポカンとされることが多かった。肥田野先生の項目これを読んでいただければ伝わるものがあると思います。音楽関係だけでなく、一般的に「理系」と呼ばれる学生たちにもぜひお勧めしたいです。とにかく、東工大の学生たちは素晴らしい「表現者」だった!




「ブラック・マウンテン・カレッジ」というのをどちらかで聞いたことはあるだろうか?簡単な説明があったのでリンクを。東工大の前世界文明センターでのことと合わせてこちらもご一読いただきたいです。

「ブラック・マウンテン・カレッジ」
http://artscape.jp/artword/index.php/ブラック・マウンテン・カレッジ

http://artscape.jp/dictionary/modern/1198589_1637.html


芸術の社会での存在意義。


芸術とは何なのか?


芸術は人間の共通言語となりうるのか?


それらは言葉で明確に説明できない。けれどある種の「本質」が存在することは確か。本当に必要でなければ今頃歴史の塵に埋もれて消えている。


存在し、求められている事実。


何であるか?を探求すること自体に意味があるかどうかは別として、「創造」することに「人間を見る」僕がいる。それが芸術なのか?そんなことはわかりません。


しかし僕は求め、創造しようとする。
人はそれを求め、創造しようとする。


例えそれが社会で必要ないと言われるようなことがあっても。



これは数年前僕が執筆したエッセイです。お求めの方はユーロピアノ株式会社にお問い合わせください。