木漏れ日の下で

ピアニスト 末永匡 オフィシャルブログ

親子で連弾すること

今、親子連弾という企画に参加してるんだけど、その予想以上の素晴らしさに言葉が見当たらないよ。

親子で連弾を楽しんでいる、というそもそもの大切な気持ちもそうだけど、それとはまた別のところで感じさせるものがあまりにも多くて、それにも感動しているわけです。

父(自分)と6歳の娘で参加してて、連弾という形で音楽を創って行く過程に含まれる全ての要素に子供とのコミュニケーションを「深く」感じる。普段子供は自分の気持ちを充分に言葉で伝えられないことも多いけど、「感じている」あらゆるエッセンスが「音楽を通して」表現されるんだね。日常のコミュニケーションでは多くの大切な何かをスルーしちゃってるのかもしれないなぁ。もちろん音楽だけではないけれど、一緒に何かを創作すること、これは「親子」という枠から飛び出ることでもあるんだね。

もう少し別の言い方をするなら「連弾を通して親はいかに親としての立場で接しようとしているのか、子供は実は何かを感じて表現しているのに、親という目線で見てしまい、それは結局連弾として噛み合っていない、それを痛感させられる。初めて親は日常の親子という関係とは違った関係、1つの作品を共に作り上げる同じ目線で子供を見なければならないことに気づく。日常の親子の関係において起こりうる、子供を守る気持ち、エスコートする気持ち、教える気持ち、そういうのとは違うんだね。自分がいかに子供の音を、気持ちを聞いていないかと気付かされ、それが連弾の音楽作品として成り立っていないと感じるから、子供が様々なことを"感じて""思って"いるという感情の存在を実感する」んだなぁ、と。

レッスンでは、先生に多くの貴重なアドヴァイスをいただきました。あまりにも自分が駄目で情けなく、同時に有意義で、感動的で温かく、レッスンの時間が素晴らしくて時間が止まってほしいとも思ったか。主催者と先生方に心から感謝申し上げます。

共に音楽をすること、それは結果として親子関係に多くをもたらしてくれる。だから大切なんだよ。子供と工作したり、キャッチボールしたり、料理したり…「一緒に何かをやること」。

子供たちに表現の場を。それを親と共有する場を。

親は知るわけです。子供たちが「どれだけ多くの言葉を持っているか」ということを。

さーて、今日は第九とメリーさんのひつじを練習しようっと。
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