木漏れ日の下で

ピアニスト 末永匡 オフィシャルブログ

Dear friends!


素晴らしい贈り物!


今シーズン、カイロ交響楽団と共演した各国からのソリストたちが写真と共に載っている小冊子。関係者の方が送ってくださいました!ありがとうございます!


大変恐縮ながら、末永もシーズンオープニングガラコンサートのソリストとして載せていただいております。昨年9月の興奮が昨日のことの様。




ページをめくるとマエストロはじめ、たくさんの友人たちが!


中には何度も共演している友人も。カイロ響コンサートマスターのヤーセル氏や、カタールフィルを拠点に世界的に活躍の場を広げるチェリスト、ハッサンなど。他にもオーボエやフルート、バイオリンの友人たち、さらにめくると、つい先日東京は中野で食事を共にしたニューヨークを拠点に活躍しているピアニストのシャムス氏も。


ハッサンは末永が最も数多く共演を重ねているチェリストバレンボイムブーレーズからも愛されディヴァンオケでも活躍していた彼からは本当に多くを学ばせてもらいました。日本ツアーも3度。話は尽きません。


楽家として生きていく中いろんなことがあるけれど、彼らに共通しているのはどんな音楽にも、それが音楽である以上情熱的に取り組むということ。いわゆる古典的なクラシックだけじゃない、挑戦的な現代音楽、ジャズなどの他ジャンル、国を超えた民族音楽、映画音楽、ゲーム音楽など、それがどんな種類の音楽であろうと、そう、世界の人々から求められている音楽である以上。


当たり前のように聞こえるけれど、当たり前でない現実も目にするこの世界。


音楽への情熱、音への興味、表現の追求、自己の解放、心の対話…のような「大切な心の潤い」を失ってしまった時、音楽をすることが、音楽で仕事をしていくことが「心が乾き、惰性」になった時、僕はたぶんピアノをやめるんだと思う。


少なくとも、友人たち、そして恩師たちは皆暑苦しいほど情熱的だった。その表情や目には、好奇心旺盛な子供が話す時の輝きと力強さがあった。


それが「音」である以上、なんの違いもないんだ。


音を前にした僕らはみんな裸。


僕らは何も解らない。


底の見えない音楽の世界。


音への飢え。


僕にとって多くの共感する言葉があり、刺激を得た武満徹の「音、沈黙と測りあえるほどに」をもう一度読んでみよう。


世界のどこにいようと、僕らは音と心で繋がっている。目には見えないけれど感じている。