木漏れ日の下で

ピアニスト 末永匡 オフィシャルブログ

夜中にふと思うレッスンでのこと

誰だって上手くなりたいと思う。

これは当たり前のこと。

しかし実際にはそんな簡単にはいかない。

上手くなるまでの道のりはどんなものなのだろう…

誰だってすぐに上手くなりたい、結果を出したいと思っている(と思う)。

その気持ちは、時に焦りを招き、そうなると「現状」「目の前」のことが見えなくなる。

本当はその「目の前の一歩」があって少しずつ近づいていけることなのに。

多くのレッスンで思うこと、それは「小さな変化に気づかない」または「気づいているけどあまりにも小さな変化ゆえにその価値を認めない」こと。

本当はその「小さな変化」があって少しずつ近づいていけることなのに。

その価値に気づかない、または認めないと「自分は成長していない」と思う。

進んでいないと思ってしまう。

本当は少しずつ変化し、成長して、進んでいるのに。

時間が経つにつれ、この半年、この一年、自分は何も変わっていない、と思うようになる。

無駄。

するともっと焦り、とにか早く答え、結果、上手くなっているという「大きな実感」を欲する。

本当は少しずつ上手くなっているのに。

自分自身を信じないことで、この小さな価値ある一歩を認めないことで、ある一定のところから先に進めなくなる。

小さな価値ある一歩に「大きな感動」を持つことがどれだけ素晴らしいことか。

音楽の細部に渡る小さな違いが多様性を生み、最終的には音楽全体に豊かな彩りを添えてくれる。その小さな小さな小さな小さな「違い」がこんなにも僕らの心に呼びかけているのに…

無視をしないでください。

あなたはもうたくさんの変化を生んでいるんです。

認めてあげてください。

認めた上で前を見てください。

明らかに世界が広がって見えるから。

感じる幅も大きいから。

感動するから。

自分が起こした小さな違い、変化、その奇跡と呼べる音楽的な瞬間を信じてあげられないで誰が信じてあげられるのだろう?

音楽は奇跡の連続。

誰がしたことでもない、全ては自分が楽器を通して起こしたこと。

当たり前のことだけど。

練習は辛い時もあるけど、その小さな変化に感動と喜びを感じられるようになったら、練習の時間が変わるんじゃないかな。

今まで気が付かなかった多くの感動と喜びが練習の中に生まれるんだから。

するとようやく少しずつまた前に進めるんです。

ジャンプはできない。

全ては一歩一歩。

そう、一歩一歩。

小さな点が連続し、ようやく線になり、少しずつ伸びていく。

本番の舞台は一見華やかだけど、それに対する膨大な練習は如何に地味で、時間がかかることか。

僕らは1つの音にどれだけの世界が見えるのだろう?

旋律をどれだけ歌えるのだろう?

ハーモニーにどれだけ心が震えるのだろう?

1つの音を追求する時、自分の弾いた音でどうしようもないくらい苦しほどに感動し、涙することだってある。

たかだか3つの音の順次進行に天国的な高みに登ることだってできる。

僕らの想像力はあらゆる感覚を可能にしてくれる。

琴線に触れる瞬間。

カラヤンがリハーサルで言った言葉。

「その4つの音に命を宿して」

30分かかる大曲にあるたかだか4つの音に命が宿されたら、その30分の曲は最終的にどれだけの命が宿されることになるんだろう?

命に満ち溢れる瞬間。

演奏に代わりはいません。

全ては自分自身が起こしたこと。

そこに起こった小さな変化を認めてあげてください。

価値を認め、感動し、喜びを、時に引き裂かれる悲しみを抱いてください。

練習は時間がかかることです。

大冒険をすればいい。

その大冒険に少しだけでも一緒にいさせてください。

今は亡き僕の恩師たちは毎回のレッスンで「感動」を伝えてくれました。

弾けなかったところが弾けるようになる、その喜びもあったけれど、それは結果として後からついてくるもの。

僕がレッスンで何を学んだか?

それは「感じること」です。

全てはそこから始まります。