木漏れ日の下で

ピアニスト 末永匡 オフィシャルブログ

レッスン

懐かしい写真が出てきた。

恩師ライグラフ先生にレッスンを受けている時のもの。曲目はベートヴェンの皇帝。先生の鳴らしたオーケストラパートの豊かな響きは今でも忘れることはない。先生の言葉、音、動き、全てを鮮明に覚えている。

「学びたい」その一心だった。

あって当たり前でなく、ずっと続くものではないレッスンというもの。その一瞬を逃すと次はない。

必死だった。上手くなりたい、盗みたい、何が何でもそれをものにしたい。レッスンの時間、全身から神経が触手のように伸びて、全てを吸収しようと集中していた。

なぜなら次はないと思っていたから。

僕の師事した先生は5人中4人がすでに亡くなっている。先生ならなんて言うだろう?先生ならどう弾くだろう?レッスンでは体感していた先生の音楽的なエッセンスも今となってはどんなに欲しようと手にすることは出来ない。

レッスンは在ることが当たり前でない。音も言葉も先生という存在も。

以前、とある高校生がある日突然連絡をくれた。勇気を持って本人が連絡してきたのを、その文面や声から強く感じた。同じような中学生もいた。一回のレッスンのために地方から時間とお金をかけてドアを叩きにくる。彼らは必死だった。

人から教わるという奇跡の時間。一回一回が輝いている。レッスンには感動がある。音楽に触れる瞬間、琴線に触れる瞬間、理屈を超えて揺さぶられる心。

レッスンだけじゃない、練習だって、本番だって次はない。その瞬間に命を与えることができなくては、過ぎてしまった時は戻せない。

今年の上半期は「考える」ことに重点を置いていた。教育のこと、人生、音楽を静かに考えた。そして家族との時間を大切にし、本を読み、自分の感覚を客観的に見つめていたりした。僕は器用な方ではないので、バタバタと忙しくなるといろいろなことが雑になる。そのせいでどれだけの人たちに迷惑をかけたか。今このブログを書きながら、ピアノの部屋からクラリネット奏者の妻が練習するブラームスクラリネットソナタ第2番第1楽章のコーダがうっすらと聴こえてくる。なんて素敵な音楽なんだろう。なんて素敵な時間なのだろう。

まるで新しい旅が始まるかのようにレッスンが始まる。僕の小さな経験がもし少しでも役立つのなら僕は全てを捧げます。


追記: 今、僕の教育経験をまとめた「ACT」と称する「学びプログラム」を作っています。